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Bible Message

毎週の礼拝で語られる聖書のメッセージ、その要約です。
バックナンバーのページでは、音声(録音したメッセージ)も聴けます。
ダウンロードも自由です。どうぞ、お聴きください。
 
『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる』
                                 ローマ10:17
<2025年6月29日礼拝メッセージ
 マタイ26:17~25 「裏切り」


 過ぎ越しの食事の時に主は、弟子達の内の「一人が裏切る」と予告した。勿論ユダの事だ。しかしこの時点では、弟子達全員が主を見捨てると、主御自身も言っておられる(31)のに、何故「一人が」なのか。
 裏切りとは、期待・信頼に背く事であり、見方を捨てて敵に付く事である。その点、ペテロ達は期待に背いて主を捨てたのはユダと同じだが、敵に付いたのはユダだけである。だから「完全に裏切るのは一人」だという事を主は知っておられた。だが、ならば何故、止めてやらないのか。ペテロが主を否む事も主は知っていて、予め執り成して祈ってあげていたのにだ。ユダが裏切るのは神の計画だからか。ならば裏切りはユダの責任ではない、むしろ功労者だ。
 確かに、十字架で死ぬ事は神の計画だ。しかし、キリストを裏切る事はあくまでも人間の意志によるのである(24)。人間は操り人形として造られたのではないが、残念な事に、その自由意思によって人は偶像や偽りの教え・異端に走る。アダムとエバしかり、その責任はその人自身に問われるのである。ユダも一旦は主の弟子に選んで頂いたのに裏切った。勿論、主はユダにも悔い改めるチャンスを与えていた。その期待に背いて敵に付いたのだから、その責任は自らにある。
 父から「ぶどう園に行って働いてくれ」と言われた兄と弟。父の期待は「行きます」という返事と「実際に行く事」だ。弟は「行きません」ではなく「行きたくありません」と言った。体調が悪かったのかもしれないし、先約があるとか、期待に応えられない場合はある。だから弟は「後でぶどう園に出かけた」。しかし兄は「行きます」と言った(父もそう期待した)のに「行かなかった」のだ。「行けなかった」のなら仕方ないが、そうではなく、行けるのに「行かない事にした」のである。これが「背いた」という事だ。ユダはそれに加えて、敵の側に付いた。それは、神の愛を受ける側ではなくなったという事である。これ程の悲劇は無い。私達は、神の期待に応える力が無い時もあるかもしれないし、それは仕方がない。しかし、期待に応えたいという心を捨ててはいけない。少なくとも「十字架の恵みに留まって欲しい」という神の期待だけは裏切らない様にしよう。

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