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CROSSROAD GOSPEL CHURCH

Bible Message
毎週の礼拝で語られる聖書のメッセージ、その要約です。
バックナンバーのページでは、音声(録音したメッセージ)も聴けます。
ダウンロードも自由です。どうぞ、お聴きください。
『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる』
ローマ10:17


<2025年4月13日礼拝メッセージ>
マタイ23:23~28 「本質を見る」
クリスチャンは、主の命で買い取られた(贖われた)ゆえに全て主のものであって、十分の一所か「自分自身を生きた供え物として主に捧げよ。それこそ霊的な礼拝である」(ローマ12:1)とパウロは言う。そう、捧げる事は「自分の心で決めた通り、嫌々ではなく喜んで」であり、礼拝なのである。しかし、律法学者・パリサイ人達にとっては、それは、あくまでも「掟・守るべき事」なのだ。そして主も、そこは否定はしない。ただ「それより遥かに重要な事がある」と言う。それは「正義・憐み・誠実」である。これこそしなければならない事なのに、それを疎かにしていると主は言われる。
律法が目指すのは「愛」だ。神を愛し…隣人を…この二つが律法の全てである。しかも律法はキリストへの養育係だと聖書は言う。では、律法によってキリストに導かれた者は何を知るのか。神の愛だ。律法は最終的にはそこに辿り着くのである。それを疎かにしながら「律法を守れ」は空しい。一番大事な所が抜けている。だから主は「目の見えぬ手引き共」と言われた。物事の本質が見えていないのだ。それは「人間」という者の性なのかもしれない。例えばイースター。何が大事かと言えば、イースターは、天国での復活の約束だという事だ。それ抜き(天国の確信無し)で騒いだ所で無意味。そういう愚かさを主は言う。「ぶよは、こして除くが、ラクダは飲み込んでいる」と(24)。
だから「まず、内側を清めよ」と主は言う。罪の問題を解決せよという事だ。そうすれば外側(人生)は変わる。聖なる神の子とされるのだから。そうでなない限りは、どんなに着飾っても(外側は「正しい」と見えても)内側は罪と死を抱えたままだという事である(25~28)。クリスチャンも、的外れな事(クリスチャンとして、こうあるべき…とか)にばっかり一生懸命になりがちだが、信仰の本質を見る事が必要だ。それこそ、しなければならない事なのだ。
主から見れば、確かに人間は皆、内側は穢れた者。だが、そんな人間を救いたいと主は願われた。その主を喜び、感謝し、仕え、崇め、捧げる…それがクリスチャンの本質(うわべではなく中身)だ。それを一番大事な事として、主を喜び、感謝し、仕え、崇め、捧げよう。
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