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Bible Message

毎週の礼拝で語られる聖書のメッセージ、その要約です。
バックナンバーのページでは、音声(録音したメッセージ)も聴けます。
ダウンロードも自由です。どうぞ、お聴きください。
 
『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる』
                                 ローマ10:17
<2025年11月30日礼拝メッセージ
 マルコ1:5~8 「本質を」


 逐語霊感説に従うなら、「全住民が罪を告白し洗礼を受けた」(5)のだから、一人残らず救われたという事になるはずである。だが事実は、多くの人がヨハネから洗礼を受けた止まりであって、それだけでは救われない。たとえ、その時、罪を告白していてもだ。
 そもそも、どんな罪を告白したのかである。律法違反か。いや、ヨハネが求めた悔い改めは、そんな律法主義や形骸化した信仰から離れる事であり、それこそが主の道備えなのだ。結局、大多数の人は「ヨハネのバプテスマとは何なのか」という事が分かっていないのである。そして今、信仰の本質さえも見失われているのかもしれない。
 さて、ヨハネの風貌(6)は、砂漠の住人特有のものだが、否が応でもエリヤを思わせる。むしろ、それが目的かもしれない。そして彼は言った。「私より力のある方が、あとから来る」と(7)。という事は、ヨハネにも少しは力があったという事になるが、彼は何か奇跡を行ったのだろうか。いや、あるとすれば「言葉の力」だ。キリストによる救いへと導く為の悔い改めを説いた…それが彼の力である。しかし、あとから来られるキリストは「人を救う(命の)言葉」を持っている。だからヨハネは「自分にはキリストの靴紐を解く値打も無い」と言った。「靴紐を解く」のは奴隷の仕事であるから、ヨハネは「自分は奴隷以下だ」と言ったのである。更に、力の差はバプテスマにおいてもであると言う(8)。「キリストは、あなたに聖い霊を浸す」という事だ。それは、エゼキエル36:26~27の預言の成就であり、イエスが救い主であるという事のしるしなのである。
 そういう訳でヨハネは紛れもなく再来のエリヤであり、主の道備えをする為に遣わされた偉大な預言者だ。しかし救い主キリストは格段に格上だ。だから、ヨハネが偉大であればある程、キリストの偉大さが引き立つのである。その偉大なヨハネでさえ奴隷以下なら私達は何者かと思うが、そんな小さな者を救う為に主は自らの命を犠牲にされた。そんな王は他にいない。そのキリストを、自らの利得の手段にするなど有り得ない。信仰の本質を分かっていないという事だと言わざるを得ない。私達はキリストの偉大さを知って、そのしもべであろう。

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