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CROSSROAD GOSPEL CHURCH
Bible Message
毎週の礼拝で語られる聖書のメッセージ、その要約です。
バックナンバーのページでは、音声(録音したメッセージ)も聴けます。
ダウンロードも自由です。どうぞ、お聴きください。
『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる』
ローマ10:17


<2026年6月28日礼拝メッセージ>
マルコ9:14~29 「困る」
いつの時代も人間は神になりたがる。アダムとエバは「これを食べれば神の様になれる」と蛇に言われて、その気になってしまった。現代のクリスチャンも同様で「信仰があれば何でも出来る。不可能は無い」と、自らが全能であるかの様な宣言をする。確かに主は「信じる者にはどんな事でも出来る」と言われたが、その趣旨は「キリストにはどんな事も出来る」だ。つまり「信じる者」とは「信仰の創始者、完成者」の事を指しているのである。だから父親は「私には何でも出来ると信じます」とは言わず「不信仰な私を助けて」と言ったのだ。そして、彼の「信じる者」(キリスト)によって息子は癒された。
さて、弟子達には、件の息子を癒す事が出来なかった。それで主は「不信仰」と言われたが、弟子達にではない。御利益ばかりを求めて、根本的な信仰(神との和解)の乏しい群衆に対してだ(19)。
何故、自分達には出来なかったのかと問う弟子達に対して主は「この種のものは、祈りと断食によらなければ…」と言われた(28~29)。果たして、断食祈祷で病は治るのか。ダビデの息子は、それでも死んだではないだろうか。そう「この種のもの」とは「てんかん」(直訳:月に打たれた)だ(マタイ17:15)。すなわち、一つの精神疾患である。その種のものには、祈りあるいは断食が必要だと言うのである。つまり、私達が信じる主イエスにはどんな事も出来る。だから私達は主に祈る。それに応えて主は(この時も、不信仰な父親だけど、その息子に)憐みを施した。「信仰があれば何でも出来る」とは逆なのだ。祈りや信仰を「超能力の様な力」と考えてはいけない。祈りと信仰の対象である神に力があるのだ。だから、その神に祈るしかない。神の憐みを期待して(断食してでも)ひたすら主にすがって…。それが「祈りと断食によらなければ」という事だ。ただし、その結果どうなるかは神に委ねるしかない。それは諦めではなく、むしろ信仰だ。「たとえ死んでも天国だ」と信じればこそ委ねられるのだから。その信仰が無いのを「不信仰だ」と主は言われたのである。
たとえ病が治らなくても、病気のままでも、片手片足を失っても、純粋な信仰を保って天国に入る方が良い、と思える者でありたい
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