top of page

Bible Message

毎週の礼拝で語られる聖書のメッセージ、その要約です。
バックナンバーのページでは、音声(録音したメッセージ)も聴けます。
ダウンロードも自由です。どうぞ、お聴きください。
 
『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる』
                                 ローマ10:17
<2026年1月4日礼拝メッセージ
 マルコ2:1~12 「主よ、見て下さい」


 当時、人々は「病は罪があるから」と考えていた。逆に言えば、病が治ったのは罪が消えたからだという事になる。おかしな考えである。だが主は、それを逆手に取って中風の人を癒した。つまり「彼が癒されたのは罪が赦された証拠だ。口先だけではない」という訳である。
 問題は、何故、中風の人は罪が赦されたのかである。主は「彼らの信仰を見て」(5)とあるが、どれが信仰なのか。他人の家の屋根をはがした事? 床を吊り下ろした事? 確かに、癒しを求める強い心はある。立派な友情もある。しかし、それらが「罪が赦される為の悔い改め」なのだろうか。彼が悔い改めたという事実はどこにあるのか。見つからない。私達人間の目には。しかし主は「見た」(5)のだ。
 主は、人の心を見抜くお方である(8)。ヨハネ1章では、その場にいなかったナタナエルの行動をも「見た」し「本物のイスラエルだ」と、彼の内面をも見抜いた。まさに、神は心を見るのである。それが全知なる神というものだ。だから、きっと、中風の人と友人達は、主のもとに来る前に悔い改めていたのだろう。それを主は「見て」見抜いたのだ。だから、ルカによれば「あなたの罪は赦されました」(5)という部分は、過去完了形で書かれている。つまり「過去において赦されたし、今も赦しは継続している」という事だ。
 大前提として罪は「悔い改めたならば赦される」のである。ただ、真実な悔い改めかどうかは、表面では分からない。だから神は心を見る。ゆえに、たとえ教会に行った事が無くとも、心を見る神が「この人には信仰がある」と認めて下さる場合もあるという事だ。だから、異端的なセカンドチャンス論など無用なのである。これは福音だ。
 神は、色々な方法で語る(ヘブル1:1~2)。被造物を通しても(ローマ1:20、詩篇19:1)。その時に神を受け入れるなら、その人は神に向かう(方向転換した)という事であり、それが悔い改め(メタノイア)なのだ。その心の中を神は見る。そして赦しを与える。この中風の人の様に。
 決して、他人の家の屋根をはがすのが信仰なのではない。悔い改め…それを主は見て、赦しを与えたのだ。私達も主に、心の中の信仰を見て頂ける様にしたいものである。

© 2014 by Crossroad Gospel Church Saga. Proudly created with Wix.com

bottom of page