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CROSSROAD GOSPEL CHURCH
Bible Message
毎週の礼拝で語られる聖書のメッセージ、その要約です。
バックナンバーのページでは、音声(録音したメッセージ)も聴けます。
ダウンロードも自由です。どうぞ、お聴きください。
『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる』
ローマ10:17


<2026年6月14日礼拝メッセージ>
マルコ8:31~38 「キリストの弟子」
主はペテロの戯言を聞いて振り向き、弟子達を見ながらペテロを叱った(32:33)。ペテロを叱る形で弟子達全員に教えようとしているのだ。何故なら、ここは初めから弟子達全員への教えだからである。すなわち、十字架での死と復活の予告だ(31)。その中で主は「よみがえらなければならない」と言われたが、新共同訳の「復活する事になっている」の方がすんなり来る。要は、その計画通りに絶対よみがえらなければ…という事だ。なのにペテロは諫めた。「そんな事が起こるはずが無い」と。健全な信仰者は災いに遭わない…という繁栄の神学に似ている。しかし、十字架はまだしも(人情的には、起きて欲しくは無いという気持ちを理解は出来るが)復活も起きるはずが無いと言うのは、神の計画を否定する事(神への反逆)ではないか。それはサタンの業だ。だから主は「下がれ、サタン」と言われた。ペテロにサタンが入ったのではなく、ペテロの発言(考え方)がサタンによってもたらされたものだという事である。更に主はペテロに「神の事を思わないで人の事を思っている」と言われた。と言っても、それはペテロだけではない。だから全員に「自分を捨て、自分の十字架を負ってついて来い」(34)と言われた。それは決して「自我を殺せ」とか「殉教も覚悟せよ」という様な事ではない。と言うのは、当時の死刑囚は自分で自分の十字架を負わされたからだ。つまり「自分の十字架を負う」とは「私は死刑囚だ」と自覚せよという事なのだ。そして「何故、私が死刑囚なのか」と訝る自らを否定せよ…それが「自分を捨てる」である。要するに「罪人だと自覚して(悔い改めて)ついて来い」という事だ。そうでなければキリストの弟子にはなれないのである。だから「罪は無い(死刑囚である事を認めない)」と、自分を守るなら、その人は「何にも優る真の命」を失うと言われたのだ(35~37)。
最後に38節だが…「堂々と信仰を表明せよ。恥じるな」という風に理解されているかもしれない。だが「恥じる」とは、人がキリストから離れる事を表す特別な用語だ。つまり、キリストの真の弟子とならない(地上の事しか考えない)、それがキリストを恥じる(キリストから離れる)事なのである。主も、その人を恥じて離れる。
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