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CROSSROAD GOSPEL CHURCH
Bible Message
毎週の礼拝で語られる聖書のメッセージ、その要約です。
バックナンバーのページでは、音声(録音したメッセージ)も聴けます。
ダウンロードも自由です。どうぞ、お聴きください。
『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる』
ローマ10:17


<2026年1月18日礼拝メッセージ>
マルコ2:18~22 「必要なら」
主の弟子達は何故、断食しないのか、と問う人々に「花婿が一緒にいるから」と答えた主(18~19)。つまり、キリストが共にいる間は断食出来ないという事だ。何故なら、断食は悲しみの表現だからである。救い主が来た(喜びの)時に、何故、悲しむ事が出来ようか、という事だ。その点、律法学者・パリサイ人達の断食は、うわべだけで何も悲しんでなどいない。ただ宗教的熱心さを誇示する為のものだった。だから主は、断食する時には人に分かるようにするなと言われた。もっとも、主は断食そのものを否定している訳ではない。必要な時にはする、と言うのである(20)。実際、その通りに、弟子達は主の昇天のあと断食して祈った(使徒1:14)。
所で、聖書の中に「断食せよ」という教えはあるのか。「断食する時は、こうしなさい」と主は言われたが「日常的・定期的に断食せよ」という教えは無い。主が言われたのは「必要な時にはする」という事だ。ゆえに、必要と感じた人々が「断食していた」事を聖書は記しているに過ぎない。だから、必要を感じないのに断食するのは、パリサイ人達と同じく、宗教的熱心さを誇示する為なのかもしれない。
さて、その断食について説明する為に、布切れと皮袋の話になる(21~22)。まず「古い着物・古い皮袋」は「律法主義」の事だ。そして「新しい布・新しいぶどう酒」は「福音(イエスは救い主)」だ、という事は分かる。その福音は律法主義では受け取れない。「イエスは主」という福音は、聖霊(新しい皮袋)によって受け取るのだ。
そこで、断食との関わりだが…断食自体は悪くない。だが、信仰熱心を誇示する為(見せかけ)の断食は意味が無い。悲しみを表現するなら、心からの悔い改めがあってこそだ。つまり、見栄の断食で福音の恵みは受け取れない、聖霊(新しい皮袋)による心からの悔い改めこそが福音の受け皿だ、という事なのだ。
だから、事ある毎に「新しい皮袋になろう」とする必要は無い。「新しいぶどう酒」は「流行の教え」の事ではないのだ。本当に必要なのは、真実な信仰の悔い改め=信仰がどこに向かっているのか…それが間違っていたなら方向転換する事である。
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